column column
院長コラム
<22>非合理主義
汚いという感覚
昨年だったと思いますが、SNS上の会話で「自分はお店のトイレのウオッシュレットを使わない」って言うかたがおられまして、
「自分の家のならともかく、お店のトイレのノズルに不特定多数の何かがついているかと思うと使えない」
という主張でした。
「そうだよね、自分もそうだよ」と同調する声がありました。
私は同意も反対もしませんでしたが、「合理的ではない」という感想を持ちました。
他人が大勢使おうが、そのノズルを使っておしりを洗浄する方が、ただトイレットペーパーで拭くよりも菌を除去できるからです。もちろん石鹸を使っての洗浄効果よりは劣りますが、流水でもしないよりはだいぶマシです。
痔の防止になっている人だっているかもしれません。
ただ、前述の「他人が使っていたから」の感情も理解できます。ただ、合理的とはいえません。
合理的でない同様のこととして、
「お父さんがいつも使っている箸を娘さんは絶対に使わない、その箸を汚いと思っている」
があります。
でも、個人用と決まっていないスプーンは気にせず娘さんは使っていると思います。
お父さんがよく使う箸も自分がよく使う箸も、スプーンも、同じように滅菌洗浄されているはずです。
しかしその娘さんにとっては、お父さんがよく使っている箸はダメなのです。
これは日本人だけが持つ非合理的な感覚なのでしょうか?
怨霊信仰
国民性に関係しているかどうかはわかりませんが、昔からそのような非合理的なものに、多くの人々が動かされてきた、そう思うことがあります。
例えばですが、一人で深夜の墓地を歩いて、墓石を蹴ったり唾を吐いたりなどの行為ができるか?といえば
非人道的だからできないのですが、そもそも夜の墓石を蹴るなど怖くてできません。真夜中の墓地に一人でいるだけでも怖いものです。
今でもそうなのです。
占いを信じるということも、誰かの予言を信じるということも、今でも普通にあります。
ましてや、迷信が迷信とわからなかった昔はどうだったでしょう?
疫病や天災が起これば、誰かが怒ったせいだとお寺や神社を作り、政敵を抹殺すればその祟りを恐れてまつる。
このことは私の大学時代の歴史の先生が「怨霊信仰」という表現を作って講義していましたし、井沢氏「逆説の日本史」シリーズでもそのことが断定的に書かれています。出雲大社も奈良の大仏も源氏物語も全部、時の権力者が何かを恐れて作り出そうとしたものだと。
それらの説が正しいかどうかはともかく、この国では非合理的なもののためにかなりのエネルギーが使われてきた可能性はあります。
けがれている、という感覚
平安時代の貴族にとって、他人の血を見たり動物の死骸を見ることは最悪の出来事でした。
自分のお屋敷の庭に鳥の死骸でも落ちていようものなら、即引っ越しです。
その場所は「けがれている」ということになるわけです。
なので、血を見る行為である戦は下賤のものたちの仕事で、自分たちは優雅に暮らす(・・・だったのですが、結局は力を持った武士に屈しました)。
血を見たり、動物の死骸に接することが「けがれている」という感覚。
動物を殺して革製品を作る作業をする人々は差別を受けていました。そんな仕事は最下層の仕事だと。
それが部落差別の歴史です。その革製品をみんな使っているのにです。
今書いてあることが100%事実でないかもしれませんが、日本人は昔からそのような合理的とは言い難い「恐れ」や「けがれ」をいだいてきたように思われます。
お店のウオッシュレットが「汚い」のも、お父さんの箸が「汚い」のも、動物の死骸が消え去ってもその場所が「けがれている」のも、全てベースは同じだと思います。
ただ、16世紀の日本に、その非合理的な感覚と対局の人物がいました。
合理主義の塊
織田信長がそれにあたると思っています。
彼は、「領地で幽霊が出たから○○」「妖術を使う○○」という事案に対して、最初から信じたり信じなかったりせず、まず自身の目で確認することにしていました。そしてそれが嘘だと判明したら裁断していました。
一度自分で確認しようとする姿勢は大事だと思います。
・農業と武士を兼業でするのが普通だった時代に、自身の兵は武士専門にして田畑の収穫時も動けるようにした
・古くから伝わる寺社や公家への税や特権をなくし、自由経済の楽市楽座を実行
・良家の家臣を優遇せず、能力主義(秀吉、光秀が出世)で組織を運営
・敵対する比叡山延暦寺を焼き討ち、本願寺など武装した宗教勢力と対決
・地球儀をもってきて最新の知識を教える南蛮人を優遇
・今の岐阜県と愛知県を領地にした段階で、「天下布武」(天下をとる)と目標を定め、その方法を模索・実行した
(それまでの大名たちは自分の領地を守るとか広げるとかしか考えていなかった)
なんだそんなことか、歴史で習ったわ、と思われるかもしれませんが、
これらだけでも当時の常識や習慣から考えると変人というか、信じられないレベルの革命家だったと想像できます。
そしてこれらは合理的な行動、合理主義の塊とも言い換えることもできます。
むろん、それまでの伝統や習慣を否定して合理主義に走るのは、内外から反発を買ったことでしょう。
本能寺の変は、合理主義に対する反発の積み重ねで光秀が暴発したのかもしれません。
おそらくスティーブ・ジョブズもイーロン・マスクも合理主義の塊でしょう。
しかし、同じ能力があっても日本で同じようなことをしようとすれば反発されると思います。
ライブドア堀江氏がプロ野球球団を買うのに妨害されたり逮捕されたり、村上ファンドの村上氏が内部告発で逮捕されたり。これらは「根回しができてなかった」「出る杭は打たれる」ということもあるでしょうが、本質は彼らを理解できない非合理的な人々から反感を買ったからだと思います。合理的=正義とは限りませんし。
いまだに契約書や社内の告知にハンコが必要な国です。現金で支払うことが多い国です。
それらを無理して変えていく必要はありませんが、そういう文化であることを理解・認識して要領よく生きていく必要があると思っています。
