雑学

<42>思考停止という防衛

他責思考

人と関わっていると、ふと「この人とは少し距離を置いたほうがいいかもしれない」と感じる瞬間があります。


それは立場や能力の問題というより、物事への向き合い方の違いから生じることが多いように思います。

自分を守ることを最優先にし、何か問題が起きると原因を常に外に求める。
都合が悪くなると事実を曖昧にしたり、話をすり替えたり、ときには平気でうそをつく。


こうした振る舞いは、本人にとっては「その場を乗り切るための対応」であり、悪意がないこともあるでしょう。

むしろ多くの場合、本人の中では「自分は普通にやっている」「問題があるのは周囲のほうだ」という感覚になっていると思われます。


そのため、自分の言動が原因で信頼を失っていることや、人望が集まらないことにも、ほとんど自覚がありません。

なぜ気づかないのでしょう?なぜそのようになるのでしょう?

認めることを無意識に拒否する


大きな理由の一つは、自分の非を認めることが、その人にとって強い不安や自己否定につながるからだと思われます。

人間は、自己肯定感に包まれていたい、承認欲求のある生き物です。

その反対になることは避けたいのです。


責任を引き受ける、失敗を認める、振り返る。
本来は成長に必要な行為ですが、それを直視すると心が耐えられないため、無意識のうちに思考は止まり、防衛に回ります。

「自分は悪くない」
「運が悪かっただけ」
「相手の説明が悪い」

こうした考え方は、心を一時的に楽にしてくれます。


他責や事実の歪曲・自己保身のための虚言は、攻撃ではなく防衛として選ばれていることが多いのです。

この状態を、性格の善し悪しとして断定できません。


むしろ、パーソナリティの成熟という観点で見ると、理解しやすくなります。


自分の失敗を引き受けること、不都合な現実を受け止めること、他者の視点を想像することは、年齢とともに自然に身につくものではなく、経験と内省を通じて少しずつ育っていくものだからです。


他責思考が強い人は、この成熟のプロセスがどこかで止まり、防衛的な思考や言動が習慣化しているようにも見えます。

「その行為は○○さんがすすめたから仕方なくやったんです。本意ではなかったのです。」

「だってこのシステムだったら誰だってミスをしますよ。」

あくまで自分のせいでなく、あるいは自分の責が少しでも軽くなるように無意識に発言するのですが、その発言が自分のポイントを大きく下げているという事実に気が付きません。

「だって」「でも」を多用して自己保身する人、要するに「素直でない人」は人間関係をうまく築けないように感じます。

さらに、周囲の反応もこの構造を強化します。
多くの人は正面から指摘せず、静かに距離を取ります。「この人に何を言っても無駄そう・・・」


任せなくなる、相談しなくなる、誘わなくなる。


本人には「特に大きな問題は起きていない」ように見えたまま、人間関係だけが痩せ細っていきます。

結果として、
本人は気づかない。行動は変わらない。周囲は離れる。
という循環が固定化されていきます。

こうした人に、正論で説明したり、論理的に説得しようとしても、状況が改善することはあまりありません。
むしろ「責められた」「否定された」と受け取られ、関係がこじれることすらあります。


だからこそ、こういう人と無理に分かり合おうとせず距離を取るという判断は、冷たさではなくこれもまた自己防衛だと思います。

ちなみに「空気が読めない」人と、他責思考の人は別の属性になります。

空気が読めない人は、嘘をつくわけでなく、理解のズレが問題になります。

つまり空気が読めない人は「わからない」、他責思考の人は「わかりたくない(直視できない)」。

防衛のために思考が停止した状態が固定化し、成熟の機会を失ってしまったように見えるのが後者だと思います。

2種類の「悩み」

ここで一つ、整理しておきたいことがあります。
私たちが抱える「悩み」には、大きく分けて2種類あると思っています。

一つは、起こるかどうかわからない未来を延々と想像し、答えの出ない不安に飲み込まれていく悩みです。


これは考えているようで、実際には思考が止まり、感情だけが暴走している状態です。


不安やパニックに支配され、エネルギーだけが消耗していきます。

確かに悩んでいるのですが、実際は悩んでも悩んでも解決しないまま時間が過ぎていきます。

もう一つは、選択肢を整理し、どれを選ぶかを決めるための悩みです。
メリットとデメリットを考え、リスクを見積もり、最終的に自分で引き受ける覚悟を決める。


人生が選択の連続である以上、避けて通れない種類の悩みです。

前者は、防衛としての思考停止に近く、
後者は、前に進むための思考そのものです。

起こるかどうかわからない最悪の事態を想像し続け、身動きが取れなくなっているときは、立ち止まって論理に戻ることが助けになります。


それは本当に起こるのか。
起こるとしたら、どの程度の確率なのか。


冷静に整理すると、実際には起こる可能性が極めて低いと判断できることも多い。

だいたい、そういう心配は起きないものですが、どうしても人間の脳はリスクを減らしたい方に動きます。

それが、いわゆる考えても仕方がない「不安」「心配」です。


その場合は、「起きたら考える」と一度忘れてしまうほうが健全です。

「質」と「量」

この思考構造は、人間関係だけで完結する話ではありません。


責任や不確実性を引き受けられない姿勢は、仕事量や経験量をどう捉えるかという点にも表れます。

最近は働き方改革の流れもあり、量より質が重視される時代になりました。


それ自体は正しい方向性ですが、十分な量を経験していないまま質だけを語ることには、どうしても違和感を覚えます。私が昭和生まれだからでしょうか?


ある程度の量をこなして初めて、自分の限界や工夫の余地、本当の効率が見えてくる。
量と質は対立するものではなく、量を通過した先に質があるのだと思います。

「効率がー」と言って、正面からぶつかろうとしない姿勢は、スマートでクールなのかもしれません。

ただ

必死になって何かに取り組んだ経験のないまま、効率や合理性だけを語るのは、説得力に欠けます。

一度は死に物狂いになって何かをやり遂げたという経験は重要です。

そういう経験が人間を強くして、何事にも動じないメンタルを作ることだってあります。

例えて言えば、やせ細っている人がスポーツジムで筋肉りゅうりゅうの人に「こっちのマシンの方が効率がいいよ」てえらそうに言うと、「は?」ってなります。

結局、結果を出すために努力した人がつかみとる「自信」と「他人からの信頼」というものを、はき違えている人がそこそこいるかと思っています。

このあたりもやはり、思考停止があるように思われます。

他責思考もパニックになる悩みも思考停止という共通の事項です。

それは自己防衛本能という認識です。

他責や過剰な不安に逃げず、選択を引き受け、必要な経験量を積み、不必要な不安は論理的に切り分けて手放す。
それは簡単ではありませんが、思考を止めないという姿勢そのものが、人生を前に進めてくれます。

また、すべての人と分かり合う必要はありません。


人生には限りがあり、使えるエネルギーにも限りがあります。


考えることをやめないためにも、どこにエネルギーを使うかを選ぶことは、とても大切なことだと思っています。


日本脳神経外科認知症学会の認定医になったのですが、それまでは意外にも山口県には防府の先生一人しかいなかったようです。

下関市にて、頭痛、めまい、頭のけが、物忘れ、脳のMRIなどでお悩みのことがあれば、志摩脳神経外科クリニックにてご相談ください